講師:株式会社一ノ蔵 代表取締役 鈴木 和郎氏(すずき わろう)

【平成11年7月16日(金):記念講演会講演要旨】

 私は、大学院を終えた昭和42年にこの業界(酒造業)に入りました。次男でしたが、中二のときに兄が亡くなり、父に酒屋を継ぐように言われていましたので、家業に活かせる学問をと考え、大学では応用微生物学を学びました。日本酒は、目に見えない微生物の働きによって造られます。先人たちは、微生物の存在すら知らずに醸造醗酵の技術を確立してきました。その技術は、バイオの時代と言われる現代においても、多くの可能性が秘められています。

戦略的合併に活路
 私が家業についた頃から清酒業界がおかしくなり始めました。一ノ蔵の創業が昭和48年ですが、清酒業界は49~50年をピークに長期低落傾向に入り、石高でいうと970万石から600万石まで落ち込んでしまいました。
 一ノ蔵は、行き詰まりの清酒業界に危機感を感じ、何とかして活路を見いだそうと、宮城県内の4つの蔵元が合併して誕生しました。当時、20~30代の若手が集まり「4人でようやく1人前」と一致団結したわけです。同じ県内で販売地区が重複しないという戦略的な合併でした。

一ノ蔵無鑑査
 戦前は、米だけで造られていた清酒も、食糧難からか昭和18年に酒の級別制度がスタートし、醸造アルコールやブドウ糖・化学調味料などを加えて、米だけの3倍量を造れるいわゆる「3倍醸造法」が確立されました。現在では、全国で600万石の生産量の内、米だけで造る純米酒はわずか8%です。
 そうして始まった級別制度は、品質と級別がかならずしも一致せず、また級別審査もあまりあてにならない状況でした。そこで一ノ蔵では、特急、1級の審査に出さず、2級で販売する「一ノ蔵無鑑査」という酒を出しました。この酒は、後にうちの看板商品になるのですが、当初は単なる徴税システムとして形骸化していた級別制度に対するアンチテーゼであり、2級ゆえに節税酒にもなるものでした。
 ところが高邁な理念とは裏腹に、50年代前半は知名度不足とマーケティング不足で販売量はじり貧でした。一ノ蔵は、一万石(1,800キロリットル)の生産能力がありましたが、創業3年後の昭和51年の出荷量612キロリットルと、生産能力のわずか3分の1でした。多額の設備投資で借金を抱え、倒産寸前まで追い込まれました。そこで役員を含めた社員研修を開き、徹底的に議論した結果、販売の現状を知ろうということになりました。

「卸」任せから脱却
 地元の一大消費地である仙台に営業攻勢をかける「仙台ローラー作戦」の始まりでした。
 当時の蔵元は、酒の販売については取引き先の卸に任せっきりで自ら販路開拓の努力をしていませんでした。
 仙台市内で市場調査をしたら、卸を通じて取引があるはずの酒販店でさえ、5軒に1軒の割合でしかわが社の酒を置いていませんでした。卸からすれば、わが社の酒など多くの取扱商品の中の1つに過ぎません。店から「売れないのでいりません」といわれたら、それでおしまいです。卸に頼りきりの販売では売れるはずもありませんでした。
 徹底した営業研修を受けた社員たちが店に飛び込み、積極的に営業努力を行った結果、3年後には県内の7割の酒屋に一ノ蔵が並ぶようになりました。

いよいよ首都圏へ
 首都圏への進出を図るために、飛込みで東京の卸へ売り込みをかけました。ところが酒の品質よりも「宣伝はできるの、リベートは払えるの」といった話になり、すごすごと退散せざるをえませんでした。
 そんな中で、品質にこだわった「日本名門酒会」という東京の卸グループの代表に出会いました。訪問した際に「酒をみせてくれ」といわれたのは初めてで、大変に驚きました。「最近は、お座敷からも日本酒が消えていっている。それは、時代のせいではなく、日本酒がまずいからだ。よい日本酒を飲んでみなさい。」と豪語するその代表との出会いでは多くのことを学ぶことができました。

産地としての商品戦略
 宮城県では68あった蔵元が、今では30社しか残っていません。宮城の酒が生き残るために、産地としての戦略、商品戦略をみんなで考えました。消費者の視点で商品の傾向を分析した結果、1.本物志向 2.価格志向 3.新しいもの・珍しいもの、しかももっと良いもの、安いものへと、常に動いているという結論に達しました。
 この条件を全部満たすことはできないので、絞込みを行いました。今では酒の製造技術も進歩して、安い酒は米糠に糖液を加えて造る、別名「原爆」「水爆」という酒もありますが、そんな酒は造れないので本物志向でいくことにしました。本物となると、吟醸酒ですが価格的に高く、一般向けとはいえません。本醸造は当たり前すぎることから、昔から造っていた純米酒しかないという結論に達しました。
 宮城県には、酒造好適米がなく、米は何を使うかで大いに悩みましたが、宮城の米は「ササニシキ」しかないということになりました。宮城県の商品戦略として「ササニシキ100%で精米歩合60%以上」を掲げ、純米酒を基準に品質や価格は各蔵元の自由ということにしました。

大手コンビニと提携
 一ノ蔵が、地酒ブームに乗って全国的にも名が売れだしたころ、大手コンビニエンスストアのセブンイレブンから、提携の働きかけがありました。最初はお断りしましたが、流通マーチャンダイジングという流通業と酒造メーカーがいっしょに製品開発をしようという試みに、実験的に取り組むことにしました。流通業とおつきあいをするうちに、消費動向を的確につかめるようになりました。そこで得られた若者の酒の消費動向とは、よい酒を少量、しかもきちんと商品管理されたものしか飲まないということでした。
 平成15年には、酒の販売が完全に自由化されます。今、セブンイレブン7千店の内、3千店に酒販免許がありますが、全店で酒が売れるようになると、全国一の酒販店になります。

本当の差別力
 食品の品質向上を目的とする食品メーカーの異業種交流会として「よい食品を作る会」を結成しました。そこで学んだことは、差別化より「差別力」ということです。
 本当の差別力とは、単なる商品の質だけでなく、経営理念の確立や社員を含めた企業全体の質の差別化と考え、総合力としての質の向上を目指しています。

講師プロフィール
《学 歴》
昭和36年3月 東北学院高等学校卒業
昭和40年3月 東北大学農学部農芸化学科卒業
昭和42年3月 東北大学農学部大学院修士課程修了(応用微生物学)

《職 歴》
昭和42年4月 家業である勝来酒造(株)[現(株)勝来]入社
昭和43年3月 父親の急逝によって勝来酒造(株)[現(株)勝来]代表取締役就任
昭和48年1月 県内、若手酒造家四人で(株)一ノ蔵設立、取締役副社長就任
平成2年10月 東北大学農学部非常勤講師(醸造学)就任
平成2年11月 (株)一ノ蔵代表取締役社長就任
平成10年11月 (株)一ノ蔵代表取締役会長就任、現在に至る

《その他》
現在、日本酒造組合中央会評議員、宮城県酒造組合副会長、塩竃市都市計画審議会委員、宮城県社会教育委員、宮城県産業デザイン交流協議会副会長、宮城県産業振興委員、日本農芸化学会評議員、日本生物工学会評議員、学校法人東北学院監事 他

《趣 味》
音楽(学生時代 東北大学混声合唱団で4年間活動)
読書(乱読)
旅行(年中出張ばかり)
平成11年6月1日現在