[はじめに]
日本印刷史ミニ版 ドイツニュルンベルクでグーテンベルクが活字印刷に成功、旧約聖書の「ここに光あり」の句を叫んだのは一四五○年ごろとされる。西欧はルネッサンス期、わが国では足利義政の室町前期末に当たる。すでに九世紀の中国で、素焼き活字が発明されたが普及しなかった。
日本では平安後期から板木を彫った印刷・木板刷りが仏典に行われた。奈良興福寺の春日版、高野山の高野版、比叡山の比叡版、醍醐寺版、浄土教版・・・が知られている。
戦国期の天正十八年(一五九○)、天正天正九州三大名の青年遣欧使節団伊東祐益ら一行が、イタリアの宣教師ヴァリニアノらと活字印刷機をたずさえて長崎港に帰国した。しかし秀吉の禁教令のため荷ほどきできず、島原半島の加津佐(長崎県南高来郡加津佐町)で小規模に印刷をはじめた。
日本初の活字本は翌十九年、右の肥前加津佐にあったイエズス教会の神学校で和紙印刷された『サントスの御作業のうち抜き書き』(一四・九×一○、厚さ四・七センチ)で、いわゆる切支丹版のスタートになる。ローマ字つづりの日本語版、訳編者はパウロ・ヨーホー、ビンセント・ホーインは付近の日本人信者とみられる。切支丹版は二十年ほどつづく。秀吉の文禄ノ役(一五九二)であらたに朝鮮半島から銅活字と印刷機がもたらされる。これを植え字(木活、木活字。本は植え字版、一字版ともいう)と称した。以降(古活字版)
時代を迎え、(摺り経)式の幼稚な時代に別れを告げ、本格的な印刷文化の活動に移ってゆく。
活字版は近世(江戸時代)に入って、ますます珍重された。後陽成帝グループの慶長勅版、徳川家康の木活字十万本による伏見学校円光寺版、おなじ家康による銅活字九万本余による駿河版、京要法寺版、南禅寺らの版、版、京五山本阿弥光悦と角倉素庵の嵯峨本、ほか小瀬甫庵、如庵宗乾、五十川了庵、曲直瀬玄朔らの儒医も私家版を出版する。
出羽米沢藩直江兼続版は、じつは京都要法寺印刷だった。慶長十年(一六○五)版の夢梅(易林)刊『玉編』のような和刻本も出まわり、長崎切支丹版、御伽草子、仮名草子(江戸初の小説様式)にも古活字版がある。
発行部数は 印刷部数は、
活字の愁ひは丁数多きものは、部数に及ばざるうちに磨滅におよび、凡千丁ばかりの物は五十部と摺事かたし。これ同字一部の内丁ごとに摺ゆへに、字によりて二十部とは掛りがたし、ただ好事家のもてあそびのみ(愚雑俎巻之五・文政八)
で、五十部ほどであった。
庶民から読書の要求が高まるにつれ、従来の支配者や社寺(坊刻版、町版という)、知識階級のワク組をはずし、大量印刷に移動を開始する。いわゆる(板本)(木版摺り、整版)
時代の到来である。
木活字や銅版の一字一個式活字は、だいいちに重くてかなわない。ふつうの民家では家の根太が折れる重さだ。おなじ字をいくつも造り、費用がかさむ。ルビも挿絵もできない。そこで寛永三年(一六二六)ごろから、板木一枚に文と絵も彫っていける板本があらわれ、古活字版時代の発展的解消となる。部数をしらべてみると、
予(注・京都の本屋山本八右衛門)『恋慕水鏡』を作して八百部摺り、厥後『源氏色遊』を作りて序の心にかなひ千部すり、又『(風流)嵯峨紅葉』を述して七百部すり、ちかくは『(好色)旅枕』、和佐大八の通し矢にひとし。そののち『役者大評判』を作して二千部すり、又『(諸国此比)好色覚帳』を述作して七百部に及べり(『好色床談義』序・元禄二)
と、七百~二千部も摺ったと分かる。
寛永期の出版者は京を中心に百名ほどだった。仮名草子『うらみのすけ』『竹斎』は、古活字版、板本(整版)ともに印刷された。板本はルビ、難字、同じ字の多数使用、挿絵が自在だから、当然出版マスコミに大きな変容をもたらし、読者層を拡大する。仮名草子、絵入り浄瑠璃本、草双紙、合巻、人情本・・・の多様性、そして作家または著者・画工・彫師・摺師の連携作業、ひいては書林の専業制を生み、出版企業化へと発展していくのである。
本木と宇田川文海 明治三年(一八六九)長崎に活版印刷所を設立したのが、オランダ語通辞(通訳)本木昌像(文政七年~明治八年)で、和文活版業の基礎をきづき、近代活字文化の父といわれる。長崎生まれ、安政元年(一八五四)下田に出張、ペリーやチャーチンの通訳に当たった人。長崎についで明治五年東京神田に活版所をひらき、東京に出版革命を起こし、その門弟が全国に散らばっていった。
本木門下に本郷新花町の道具屋の伜茂中貞次がいる、その弟がのちの作家宇田川文海で、兄に従って活版を修業、六年に秋田へやってきて、秋田に印刷文化をひろめることになる。
(1) 大槻如電・佐藤栄七『日本洋学編年史』錦正社・昭和四十年九月
(2) 英オックスフォード大学ボドリーマン図書館蔵。平成二年九月~十月、八王子市東京富士美術館で公開された。
(3) 活字史については、拙著『近世書林板元総覧』(青裳堂書店・昭和五十六年一月)に要約してある。
(4) 三谷幸吉『本木昌造・平野富二詳伝』同頒布刊行会・昭和八年
(5) 履歴は自伝『喜寿記念・新聞記者になるまで』(大阪宇田川翁喜寿記念会・大正十四年)に詳しい。次章で述べる。
[江戸期]
七軒の出版王 秋田版は近世を通じて、佐竹氏二十万五千八百石の統治領地だった。
現在の秋田県のうち、本荘市・由利郡(本荘藩・亀田藩、交代寄合衆生駒氏の矢島領。旗本仁賀保氏の仁賀保領)と鹿角市・鹿角郡(南部領)を除く地である。南から順に雄勝郡、平鹿郡、仙北郡、河辺郡、秋田郡(明治十一年南北に分ける)、山本郡の俗称(出羽六郡)が秋田藩で、中心地が秋田郡久保田城下町、現秋田市に当たる。
北辺の地だけに独立店の板元は一軒もなく、領内の出版活動は他領に比べてきわめて貧しかった。
管見に入った出版主を時代順に分けると、[1]一文字屋与右衛門(享保)、[2]飯塚初三郎(享和)、[3]良栄堂(文政)、[4]
桑月庵(同)、[5]藩校明徳館、[6]板屋久治(嘉永)、[7]弄月園(万延)の七件がかぞえられる。
享保初め(一七一六~一七二五)以降幕末までで、弄月園を除いてはいずれも久保田城下で板行された。と言っても、一本立ちの書林ではなく、すべて副業もしくは趣味的な蔵板としてよい。辺境において旧時代の出版は、概してかようなかたちをとらざるをえまい。以下、順を追って検討してみたい。
[1]一文字屋与右衛門(久保田城下町)
秋田市の好事家加藤蓼洲が、秋田魁新報・昭和十年四月五日付に発表した随筆「一文字屋与右衛門」によって、存在が知れる浮世絵板元になる。
秋田郷土会主催第六回浮世絵版画座談会は、秋田関係版画を中心として三月十七日開かれた。種々秋田藩関係のものもあった内に、涅槃像にて下部に「秋田仕出紅絵色々於呂之版本るゑなし一文字屋与右衛門」とあり、画面に下部中央に「重次版」とある。所謂丹絵一幅があった。誰が見ても二百年以前のものと見られるものであったが、初期版画としての価値は暫く措いて、秋田仕出し示々と、一文字屋与右衛門なるものが、果たして秋田にあって、かういった版画を作って売り出してゐたものかどうかが以前から疑問であったので、今回の座談会に持出して見たものであった。
所が果然、武藤一郎氏があ(注・かカ)って、郡部某家に見たる版木に「アキタクボタ一文字屋」と彫刻されたる、鳥居清倍の信田十六騎の芝居絵の版木を発見して拓本まで取られたとのことであった。それで再び某家に紹介せし所、すでに版木は所在不明となったとのことであった。かうして見ると、時代も約推定年代と合ってくるし、秋田に一文字屋与右衛門なる版元があったことは疑ひなき事実と見てよいわけである。
涅槃図があり芝居絵の版木があり、「坂本るゑなし」とか「紅絵色々於呂之」等のある所より見て、この外色々な絵紙を作ったり、板本等も作ったものと考へられるが、今伝へられてゐるものがないので、二百年前頃において、どの程度の秋田の文化に貢献してゐるか不明なので甚だ遺憾である。
尚一つの疑問は、前記涅槃像画中に「重次版」と明らかに角線を以て入れてあるのは、涅槃像の筆者なりや、又彫刻師なりやも判然しないものがある。版とあれど版元ではないであらう。版元には一文字屋与右衛門であって、筆者にして彫刻を兼ねたるものの如く考へられる所であって、何れにしても、この「重次」なるもの並に「一文字屋与右衛門」なるものについて、もっと詳しく博雅の士に御示教を得たいものである。
一文字屋のは求板であろう。そして、紅絵を摺りだしたようである。「秋田仕出紅絵色々おろし」で、店の性格が偲ばれようが、やはり富裕商家の兼業蔵板としてよかろう。「板本るゑなし」は「板本類ナシ」の方言なまりと思われる。板本は取りあつかわず、絵紙だけ店に並べたらしい。一文字屋の屋号は寛文から天明ごろまで京にあった有名書肆店から借りたか。
問題にしているのが、「重次版」である。「○○板(版)」は通常板元印にあるゆえ、一文字屋以前の地方求板の店名と考えたい。重次なる書肆は三都に見あたらぬからだ。延享ごろの万月堂の絵に「上村板」「江戸芝神明前横町三島町江見屋吉右衛門」、石川豊信の絵に「丸小板」(江戸通油町丸屋子兵衛)、宝暦にいたって「山本板」「山城板」などと、同様様式の板元印がめだってくる。
釈迦入滅をえがく涅槃図は、享保期に西村重長らによって描かれた。一文字屋板の鳥居清倍は二世だろうし、宝暦五年八月・江戸中村座「信田長者柱」の芝居絵だろう。一文字屋は紅絵の店だった。墨摺、丹絵、漆絵に次ぐ筆彩版画が紅絵になる。墨板に筆で色を塗り絵のようにほどこし、黒と紅の部分を強めるため、漆やニカワを上塗りして光沢をだす技法である。複数の色板を使う紅摺り絵や錦絵は次の段階だから、比較的楽に摺りあげられるのが紅絵だし、地方出版向きに稚拙な手法時代のものといえよう。
[2]飯塚初三郎(久保田大町四丁目)
医家にして本草学に通じた医家・紀行家の菅江真澄「久宝田能落穂」(文政五年筆)に見える店である。
梶の葉のふみ
大町ノ四丁目の書肆のぬし、飯塚ノ初三郎といふ翁あり。享和のはじめつかたならむ、『梶之葉之弁』といふものを記り。其書は、たゞ梶の葉の事のみ、ひとり論ひもて一トまきはをへぬ。弁とはさる事から、能ク書見たる人のかきさまともおぼえず。露の功あるてふものにもあらざるべきか。また、外にふかきこゝろもありけるか。
書肆と称しても雑然と本を並べるほどの店だったろう。ほかの資料にはあらわれない名である。本屋のあるじが手すさびに綴った梶の葉雑記だった。文政四年冬序刊の俳書『秋田人名録』によると、初三郎は玉虹舎花仙と号した俳人でもある。右の文によって、はからずも真澄という謎めく人物の狷介な性格が見えてきそうで興味ぶかい。本屋の刊行物ながら、自費出版が実情のようである。
[3]良栄堂(久保田本町五丁目)
前述飯塚ほんやの南隣の町である。文政二年三月刊の応斎秋山御風撰『俳諧法華』に、「文政二年己卯弥生出板/良栄堂以波音梓」の刊記がある。通称広島屋孫右衛門という。本町五丁目は煙草座のまちである。しかし、文政十三年刊の秋田郡郡奉行・子倫は蓮沼仲著『重刻六諭衍義』末尾に、「彫刻良栄堂」とあるので、本職は印舖であろう。
明の太祖の教訓書『六諭』は清の范鋐によって解説を付され、琉球人程順則が日本に伝えた。享保の室鳩巣いらい多くの講義本が出ている。良栄堂本は二十六丁にわたり、大意を述べた初歩入門書だった。戯作狂歌にも長じた家老松塘疋田厚綱の序、板下を藩士鳳台石川広隆が書いた。同店板の錦絵も出まわっていたと、秋田魁新報・昭和十一年三月三十一日付に載る。
[4]桑月庵(久保田楢山登町)
久保田の虫二房四世片岡渭南編『秋田人名録』を発刊、奥に「彫刻師、夷堂小路/桑月庵和京/文政四辛巳冬出板」と記す。
秋田領俳人名鑑のたぐいで、桑月庵和京また俳号だった。本名は不詳。夷堂小路の地名は現在失しているが、秋田市楢山登町北端、岡崎製氷店東入りの小路になる。桑月庵は彫りものを業とし、かたわら蔵板物も手がけたであろう。
[5]藩校明徳館(久保田東根小屋町上丁)
秋田藩校については、信濃の東条耕撰『諸藩蔵版書目筆記』三巻(解題叢書・国書刊行会所収)が簡潔に説く。
秋田藩は先世山崎闇斎の学派にて、学舎を明徳館と号し、四書五経等の訓点の版ありしが、明和壬辰の大火にて知人もなし。天明の末藩(校脱カ)主・村瀬栲亭は、山本北山を信用するありて学風一変せり。しかれども一藩文学今に甚だ盛にして、藩士著述する人多し。蔵板も数種あり。大窪詩仏、奥山榕斎、岡部菊涯等其の巨魁なり。
藩校は寛政元年に企画され、同四年三月十四日に開校、当初明道館の名であったが、文化八年十二月三日明徳館と改称している。同館祭主の中山菁莪が闇斎系小野鶴山門だったので、右の文のように見られたのだろう。むしろ村瀬栲亭(秋田藩儒、用人格)の古註学が初期の特色である。明和壬辰九年の火災は、江戸邸日知館のもので誤って記述されている。同年二月二十九日の江戸大火で藩邸が類焼した。明徳館では教本の自給自足制で、板行もなされた。嘉永以前の四書五経だけにとどまらない。江戸邸日知館顧問の山本北山『較定孝経』『経義掫説』も印行している。刊行は不明である。
珍しいのは(秋田玉編)であろう。正しくは『四声附韻冠註補闕校正増続大広益会玉篇大全』十二冊の秋田版であり、「秋田藩明徳館蔵版記」の角印が見える。事実は難波の毛利貞斎本の復刻で、ために明治初年毛利家から訴えられた風聞も残っている。復刻は天保十五年三月と、明治十一年の二回おこなわれたらしい。明治版は仙北郡角館町雲然(当時雲然村)の彫刻師阿部三泉が彫った。天保版のは不明である。
ほかに藩主佐竹義和(在任天明五年~文化十二年)の命で、藩士鈴木汪ら編『如不及斎別号録』四十八巻も、出版される予定であったらしく、板木数枚が県立秋田図書館に残っている。
[6]板屋久治(久保田城下町)
地元の画人豊田克斎描く一枚摺り「江戸道中廻り」を出している。嘉永六年に売り出された。東北大学漱石文庫の所蔵になる。板屋の屋号から推して、印舖が手がけたものであろう。
[7]弄月園(秋田郡阿仁前田村八幡森。現、北秋田郡森吉町)俳人弄月園庄司唫風の蔵板で、多くの俳書を幕末から明治にかけて刊行した。手はじめが万延元年(七月序)~
明治五年(六月跋)の『付録俳諧音信類題集』四季の部立て四冊。吟風と俳聖斎秋山御風(久保田城下)共撰。江都の由誓序、鳳斎庄司清梧(唫風の長兄)跋。領内外の俳人から集めた全国規模の発句集になる。雕板(彫刻)は唫風一族の栄光堂素泉(庄司庄助)だった。夏の巻は刊年不記載、秋の巻は明治元年十一月刊である。唫風(天保五年三月十一日~明治三十八年二月二十八日)は、名為之助喜久。帯刀を許された豪農であり、諸国を遊歴、高名な俳人と交わった。明治に入っての蔵板に、五年『美屋満土産』、八年『御風発句集下』、十六年『吟歩集』、十二年~二十四年『俳諧付合集』初~五号、三十五年『夜寒百韻』があり、唫風追弔句集『宇た可多集』は四十年の庄司穂軒(画人。前記清梧二男)蔵板だった。
(1)拙著『近世書林板元総覧』で全国六千軒の江戸期書林を調べたが、秋田は全国でも珍しく坂本(出版社)がいない。
[明治期]
活版事始めと松本譲 秋田の近代文化は、明治七年二月二日創刊の「遐邇新聞」発行元・聚珍社によって幕があがる。所在地は秋田町茶町菊之丁三十七二―四二―四(秋田市大町―二十六)だった。紙名カジは(遠近)、社名のシュウチンは(活字)の意味になる。和紙十丁、一部三銭五厘、当初は週間。別称県出版局が示すように、県庁の広報伝達の機能から発した。
東京から編集者兼活版工の鳥山捨三(のちの作家宇田川文海)、資金援助の柴村藤次郎、吉岡重次郎、会計の菅又謙二、少しおくれて活版工松本譲らが幹部として招かれた。鳥山は「はじめに」末尾で述べたように、家兄茂中貞次が本木昌造門下で印刷の仕事をしていたため、明治三年二十三歳から職工となった。秋田市に赴いた経緯は、印刷の先輩平野富二から、
今度秋田県の活版印刷の御用を担任けて出張する人があるが、県庁では印刷の御用を命令する代わり、その別事業として、是非新聞を発行しなければならぬといふ注文。ところが経費の都合で新聞紙の主筆と、活版部の職工長と、二人を雇ふ事はむづかしいから、一人で此の二役を兼ねる者が欲しいが、是非世話をしてくれといふ困難な相談。そこで予もいろいろ考へて見たが、予の知る限りでは、差当たりお前より外に適任者がないから、是非二役兼ねて行って貰ひたい(小野源蔵「宇田川文海の秋田日記」秋田魁新報・昭和十四年七月十九日夕刊)
と誘われ、六年八月四日秋田へ出発した。職工長兼記者である。「相伴ふ人は吉岡十五郎君、柴村藤次郎君外壱人、僕と合わせて合計四人。家兄吉太郎、真平、千住駅まで送り来る。二十四日午後横手着」だった。
鳥山は秋田市に二年滞在した。東京から中村敬宇『両国立志編』福沢諭吉『学問ノススメ』を取り寄せて愛読し、狩野旭峰ら秋田の漢学者に有益な教えを受けたと述べている。七年十一月二十五日創刊の「浪華新聞」参画のためであろうか、しばらく秋田を留守にした。遐邇新聞七年七月十二日二四号から九月二十八日三五号まで名がない。帰ってきて印務者になるが、再び秋田を去り、八年一月兄茂中を援けて神戸港新聞で記者を務め、十二月浪花新聞、十年八月創刊大阪日報、大阪新報編集長、十三年八月二十日創刊「(大阪)魁新聞」に入社、そこの新聞小説作家として名をあらわす。
柴村藤次郎は日本橋橘町三丁目三の鼈甲屋。秋田に来てからは明治十年前後茶町で運送の支社も設けている。七年五月改正の《県活版処発閲(聚珍社の印あり)》『秋田県官員録』には、「東京府管下商柴村藤次郎、等外四等出仕」と役人扱いで、《聚珍社・県活版処》の官営的企業性が、ここで偲べるだろう。住所は古川堀反新町二○の旧疋田家老邸、のち那波邸(千秋明徳町一―三七)だった。吉岡重五郎は日本橋小伝馬町三丁目馬屋新道八の商人である。
鳥山の秋田赴任のおり「外壱人、僕と合わせて合計四人」とある外壱人は(新聞創刊半年前)、だれであろう。おそらく印務者管又謙次(二)にちがいない。印務者管又の名は遐邇新聞十年三月六日の二○八号から消え、代わって松木譲が(印刷人)の肩書きで掲載される。しかし八年七月に長女たかを秋田で得ているので、その前に来秋していなければならない。
松木譲(嘉永四年一月十五日~大正十一年十月十六日)は埼玉県入間郡勝呂村(坂戸町)赤尾七八生まれ。平民左膳長男、兄弟はない。十四歳で母、十六歳で父を失ったため、上京して印刷工になった。後年孫たちに「秋田に招かれたので、妻ふじとカゴに乗ってきた」と語る。妻の入籍は七年六月、この時秋田へ出立したものか。鳥山に一年遅れて秋田入りしたと見たい。住所は保戸野本町四だった。
いらい秋田活版所(聚珍社の後身、秋田日報の印刷所。十五年一月改題)、二十七年に改称して秋田株式会社、三十八年ごろ片野永之助経営の明治活版所に移管され、そのとおりに松本は勤務しつづける。一方吉岡重五郎は十五年九月二十五日、田中町十四の自宅に目醒社を起こし、「めざまし雑誌」を創刊するが(魁新報・大正三年九月六日付)長くはつづかず、その後の消息はつかめなくなってしまう。
松本は明治大正の長きにわたり、秋田印刷文化の最前線に立ち、また自ら進んで郷土出版を引き受けるなど、指導的地位を保った。近代化の隠れた担い手だったいえよう。木活字から鉛活字へ、手動式から輪転式へ、すべて松本が手がけて指導したのである。後年秋田印刷界の第一人者となった塙徳蔵、柳原庭之助、佐藤常一郎は松本は手ほどきされた人びとである。
明治七年二月創刊の遐邇新聞について、諸本に清朝活版印刷とあるのはいかがであろう。木活字を用いての片面一枚刷りではないだろうか。手引き印刷機か、フートマシン(平圧し印刷)の手動式と思われる。木活字を組み、墨を塗り、紙一枚を当てて上から圧して刷る方法である。
日本の印刷新聞の初めは、文久二年(一八六二)一月の「官板バタビア新聞」で、オランダ政府寄贈のスタンホープ式手引き活版印刷機だった。明治五年二月二十一日創刊の「東京日日新聞」は美濃紙大の木刷り・手刷りだが、需要がまにあわず、二号で上海製の鉛活字に切り替える。ところが漢活字の大小そろわず、やたらにカナばかりで埋めあわせる珍事が起き、四回にわたって謝罪の広告を出した。世にいう(東日の新聞漢文事件)で、初期印刷の苦心である。その二年後、秋田で無難な木活字が選ばれた理由にもなろう。
十一年十月一日の遐邇新聞は、秋田遐邇新聞と改題した。一枚刷りの西洋紙で、A四判より大きめ、四ページ。清朝活字を使用したのは、円筒式印刷機・俗称ロールを備えつけたためか。東京日日では七年から用いている。
聚珍社と文明開化 聚珍社グループは、まさしく秋田文明開化の牽引車となった。こんどは学芸面から分析してみよう。遐邇新聞創刊の年、七年七月十二日の二十四号から、編集に県北大館町(大館市)出身、漢学系の旭峰狩野徳蔵、九年六月十三日の七十八号では狩野が主幹にまわり、編集に同じ大館市生まれの澹園江帾運蔵を登用、社長柴村、東京支局吉岡になる。江帾また漢学系であり、和歌もよくし門下も多かった。
狩野と江帾が出版界に登場したことで、維新革命をなして威丈高の国学系を押えて、漢学系が挽回復権、学芸色を濃くして、文学青年・言論青年を育て、文学に政治に俊才を巣立たせた功を見のがしできまい。聚珍社の大きな意義である。また新聞だけにとどまらず、本の取次、洋紙・薬品の販売、表装、製本など、東京から開化風の物品を仲介する唯一の場になった。いわば文明開化の窓である。
社員は文人趣味に満ちていた。そのため次の段階で強力な文芸パワーを発揮した。聚珍社は十一年七月、文芸誌「羽陰小誌」が、そして十二年一月に滑稽文芸誌「ころころ雑誌」、同年五月には児童文芸誌「二葉新誌」と、矢つぎばやに創刊された。広報印刷業、新聞発行のほかに、秋田の雑誌マスコミ発展の礎石をすえたのである。
にわかに秋田の文芸の黄金期が訪れる。雑誌の販路は全国に及んだ。とりわけ羽陰小誌の投稿者は大沼沈山、小野湖山、大鳥圭介、陸奥宗光、細川護美、白根専一、千家尊福の儒者・大臣クラスから、緩猷堂の岡千仭、高崎正風、税所敦子、中島歌子、佐々木弘綱、その子の信綱はわずか八歳で寄稿するほどのスケールの大きい雑誌になった。秋田では空前絶後の文芸誌といえよう。
ほかに八年四月に県太平小学校(秋田大学教育文化学部と秋田高校の前身)の教科書『秋田県地図解』と、十二月の『化学之始』などテキスト類も刊行、社員の活版系松本譲も自宅で大阪金蘭社発行の月刊「此花新誌」を売っている(十二年八月一日秋田遐邇新聞広告)。十三年三月二十四日付け秋田遐邇新聞(十一年十月一日改題)に『俳諧秋田蕗の芽集』全二冊の予告広告が載る。秋田俳壇の第一人者・朱果堂会田素山選で、九月刻成として県内の代表的俳人六人が素山を援助した。
華やかに出版時代へ 明治十五年一月になって、秋田遐邇新聞は改組される。言論青年の大久保鉄作・畠山雄三らによって「秋田日報社」と改められた。文学青年派の聚珍社は、初期文明開化啓蒙期を十分な内容をもって経過、代わって言論青年たちの時代が登場、時代色を強く反映させて、政党新聞に変化し社を秋田改進党事務所に置いた。
翌十七年四月、秋田日報を退いた聚珍社系の狩野旭峰は、『雄鹿名勝誌』を著わし、大正三年まで五版をかさね、男鹿半島をPRしながらベストセラーとなる。印刷は聚珍社改め、秋田活版所である。
江帾澹園は狩野同様、秋田日報になじめずに退社、自宅に寧静吟社を張り、歌道の師になる。こうして聚珍社の文芸家たちは、明治半ばにいたって四散、その原因としては近世的文人趣味が、政治的な言論時代に馴化できなかったことをあげてもよいだろう。
政党新聞という新しい衣装をまとった秋田日報は、やがて初期政党混乱期にはいり、二年九月秋田新報と変わり、県庁の弾圧事件があって二十二年二月秋田魁新報に改題する。魁新報第一号が、聚珍社残党の秋田活版社改め秋田社活版所で刷られた。同活版所は二十五年三月、湯沢町(湯沢市)井上豊英著刊『近世秋田名誉伝・第一』を、次いで八月江帾澹園編「江湖詞華」創刊号、二十六年二月には狩野旭峰「秋藩温故談」を印刷した。旧友狩野・江帾の仕事を受け持ったのは、聚珍社いらい秋田社活版所で活版技術を受け持つ松本譲だった。二十七年三月の「江湖詞華」七編は、秋田社活版所が秋田株式会社と改めたことを告げる。
二十九年四月、「私立秋田県教育会雑誌」四十七号が、数百ページの特集で出された。編集発行秋田市手形休下町佐川盛信、印刷人松本譲、印刷所茶町菊之丁一八(大町二―三―
四八)秋田株式会社で、あいかわらず雑誌出版も盛んである。七月には寛政期の文人人見蕉雨『黒甜瑣語』全四冊をそして十一月秋田の一等史料となっている。橋本宗彦編『秋田沿革史大成』上巻が出された。
印刷味爽期から功のある松本は、三十五年十月刊の文芸誌「鳴鏑」創刊号奥付によれば、大町一丁目二一旭活版所に在籍、自宅は保戸野北鉄砲町五となっている。つぎに秋田株式会社を併合した新設の明治活版所(片屋永之助経営)に移るのは、三十八年ごろになろう。(松本の孫吉也氏は大正四年七月二十七日生、県庁退職、高陽幸町二―一四)
明治の印刷所 明治二十年代に活動した印刷所は、以上のほか左記企業がめだつ。
○秋穂堂(中通町一五)二十六年三月十四日刊の誉田義英『新撰秋田県史談』では印刷でなく発閲。発行所としてめざましいものがあった。
○賛陽舎(保戸野表鉄砲町八三、長倉源蔵)二十四年五月一日刊『動物植物名称伊呂波玉編』奥付。編集発行下米町一―二二士族永井広明。舎名は二十五年七月十二日刊「(第一次)秋田文学」奥付による。ただし二十六年の西宮藤長序『通常礼法』の印刷人では保戸野表町八三となっている。表鉄砲町であろうか。
○麗沢社(保戸野愛宕町)二十四年四月二十一日刊、狩野旭峰「秋田風雅集」創刊号による。
○伊川宗一(保戸野表鉄砲町八一)二十九年四月十一日刊、小松直之進『軍人亀鑑・宋岳忠武伝』の印刷者。社名不明だが、前記長倉源蔵の八三番地と近隣地になる。
○大沢鮮進堂(横手市大沢堅治)二十六年十月・笈川栄助『秋田県史話』刊。二十七年八月には「横手商業」紙創刊、印刷。のちの羽後新報である。
○能代印刷所(能代市島田五工)二十七年。俳人五工(のち五空)が二十歳で創業(手動式)し、「淳風会雑誌」創刊。三十年八月に石版印刷をはじめる(五空年譜)。しかし前二十六年七月、能代の島田治右衛門らの能代実業会が「能代実業要法」を創刊している。また、二十七年に「大曲新報」創刊。
明治四十年前後の秋田市内の印刷所を著誌から拾い書きしてみよう(◎印は二十年代創業)
[石版](石版画も印刷した)
○佐々木採雲堂(大町二丁目三)○長倉精研堂(茶町扇丁)○永井広栄館(上米町一丁目
[活版]
○明治活版所(茶町菊之丁一)。前身の茶町菊之丁八秋田社活版所は十年代創業。三十八年ごろ茶町菊之丁一八秋田株式会社に合併。大正六年十一月十九日刊の堀井簗歩「筆と鍬」第四では、秋田社明治活版所となっている。)◎北羽活版社(大町三丁目二三)◎共立活版所(大町三丁目二五)◎久保田活版所(大町二丁目二)◎癸巳活版所(大町二丁目二、のち大町一丁目)○秋田時事活版所(大町二丁目)○那波合資会社秋津活版所(茶町菊之丁)○
はかりや印刷所(楢山本町下丁三)――ただし、新聞社は除く。右のうち、四十二年創業の秋津活版印刷所は、始めて電力を応用して手動式印刷機にお別れし、秋田の印刷出版界は新しい時代を迎える。
郡部では三十年代に入り平鹿郡増田町の東海林書店が出版活動をはじめる。三十二年一月『秋田県郷土地理』、三十三年十二月『秋田県唱歌』など、横手の大沢鮮進堂と並んで、教科書副読本類を盛んに発行した。印刷所は併設しなかったが、秋田市の本金は二十六年、金永堂の名で教科書の『秋田県小学校史略』を発行している。
秋田の出版は明治末になって、ようやく文明の利器による文化啓蒙が大きな輝かしい波として、県内一円に寄せ返るのである。大正・昭和期は広範にわたるので略したい。現在、県内で出版をなしているのは、秋田市秋田魁新報出版局、同秋田文化出版、同秋田協同書籍、同無明舎出版、同みしま書房で、いずれも郷土を主題にした単行本に力を注いでいる現状である。
なお「明治大正・秋田印刷文化展覧会」が、昭和七年六月十一日~十三日、秋田図書館で開かれている。明治六年十月の「秋田県布令綴」七年二月遐邇新聞第一号から、大正十五年の栗田茂治『秋田城考』まで三百点ほど、県内出版を展示している。その目録が残っていて参考になる。 |